つれづれに

あなたに会えて良かった

「最近仕事はお忙しいですか?」 仲間同士や知人との間でごく普通に交わされる会話。しかし私の場合にはそのあとで、「でもあなたの場合忙しいのが良いのか、悪いのか、答えにくい職業です ね?」と問い直されることが多いのです。

それは私の職業が葬祭業という人の「死」と深い関係を持つことに起因しています。悲しい「非現実的」な場面に直面する私の職業が忙しいということは 多くの人が死ぬこととイコールであると解されるようです。しかし、生者必滅、会者定離(えしゃじょうり)の言葉が示すように、生あるものはすべて「死」と いう「現実」

から逃れることはできません。人間の死亡率は長いスパンで見れば100%です。だからこそ、それぞれの物語の主人公である故人の最後の儀式である葬 儀は、その人生の最期を締めくくる重要な役割の一部を担っています。親しかった人間が亡くなった時、多くの人が通夜や葬儀に駆けつけます。

葬儀は故人と関わったさまざまな人が最期の別れを告げる場でもあります。その人生の終焉を目の当たりにし、「あなたに出会えて本当に良かった」そん な感謝の気持ちや言葉を伝える最後の舞台。それを裏で支えるのが私の仕事なのです。

お別れの会

ある病院の院長先生が亡くなられて、ご葬儀の打ち合わせを進める中で、故人やご遺族の希望で、通常の葬儀ではなく「お別れの会」をしたいという要望 をお伺いしました。できるだけご希望に添いたいと思い、ご遺族の方々のお話を伺い、さまざまな提案をさせていただきました。

ひとつ問題があったのは、ご葬家が檀家になっておられるお寺様との関係でした。葬儀には伝統的な、人の魂を冥界に送るための、いわゆる導師が司る宗 教的な儀式としての側面、故人や遺族とそれまでに関わってきた人間関係に起因するお別れの場という二つの側面があります。

「お別れの会」は後者の側面であり、前者の側面は、信仰を仲立ちとするお寺とご葬家の関係であり、われわれ葬祭業者が立ち入れないところです。ご葬 家がどこかのお寺様の檀家になっておられる場合、そのお寺様のご意向を無視するわけにはいきません。

幸い大変ご理解のある御住職で、宗教儀式は近親者だけで営み、お別れ会を切り離して行うことになりました。「死に様は、その人の生き様のすべて」絵 を描くことが趣味だった故人の作品を花祭壇で再現し、その中に遺影を飾りました。

ロビーには遺品を展示、式次第も、黙祷に始まって、故人の足跡をビデオでたどり、弔辞ではその功績が語られ、まさにその故人にふさわしいものになり ました。その様子は、映画で言えばまさに主役から始まって映画製作に関わった全員の名前がテロップとして流れるエンドロールを見るようでした。

故人が主役を演じた物語の最後に、縁ある多くの人が立ち会ったのです。映画の製作もそうであるように、人生も多くの人との関わりの中で育まれていく ものなのでしょう。私もそうですが、映画館では、多くの観客がエンドロールが始まると席を立ち、帰り支度を始めます。

しかし、故人の人生ドラマの余韻を残すエンドロールで立ち上がる会葬者がいなかったことは言うまでもありません。

家族へのメッセージ

葬儀についての事前相談は最近では珍しいことではありません。それは、自分自身の葬儀への相談の場合もありますし、家族の葬儀に対する場合もありま す。世の無常を「現実」として受け入れ、家族のために自らの意思を伝えようとする行為、肉親の葬儀に思いをはせるという行為は美しいと感じます。

それはある日突然のことでした。子供連れの若いご夫婦が私どもの斎場を訪れ、「葬儀の相談をしたい」とのことでした。私は訪れたご夫婦の年齢を見 て、ご両親か誰かの相談なのだろうと思いました。しかし、話を進めていくとどうも話がかみ合いません。

「大変失礼ですが、どのようなご関係の方の葬儀のご相談でしょうか」と私の方から尋ねました。すると、「私の葬儀です」とご主人がきっぱりと断言さ れるのです。いくら事前相談が多くなっているとはいえ、その30代も前半のご主人の言葉には驚かされました。

がっしりとしたその体躯からは、到底「死」という言葉とは結びつかない思いで話を伺うと、すでに体は癌に侵され、死の宣告を受けていると、淡々と話 をされたのです。そしてそのご主人の希望は「私が死んだあと、残された妻や子供たちに、強く生きてほしい。そんなメッセージを葬儀で残したい」というもの でした。

多くの葬儀をお手伝いさせていただいている立場として、その強い意思には深い感銘を受けました。死という現実を受け入れ、後世に自らの意思を、家族 への愛を伝えようとする。それは死の予感と戦いながら、自らが 生前に録画したビデオで会葬者の方々に御礼を述べるという生前葬にも似た形式に帰結しました。

自らの葬儀に自らの意思をビデオで伝えるという強烈なメッセージ、そこに秘められた家族への大きな愛は葬儀に参列した家族や友人たちに深く刻まれた に違いありません。

被害者 支援ネットワーク

犯罪や交通事故などの被害に遭うこと、家族が事故や犯罪に巻き込まれることは、大変つらく、とても悲しいことです。被害に遭ったことが本当であるの か信じられなくなったり、どうしてよいのかわからず、悩んだり、不安に思うこともあるでしょう。

また被害にあった後は、様々な手続きが必要になりますし、経済的な問題が起こることも多々あります。こんな突然の被害を受ける被害者を救済するため に警察署ごとに被害者 支援ネットワークという組織が組織されています。

私もいわき東警察署の呼びかけで、いわき東地区被害者救済ネットワークの会員になっています。これまで、社会において犯罪や事故被害者の現状はあま り理解されておらず、孤立した存在でした。

そのため、被害者を支援する体制も不十分でしたが、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災をきっかけとして、経済的な側面ばかりでなく、PSTDなど 外から見てもわからない精神的被害も広く知られるようになり、社会的に被害者援助の関心が高まっています。

多くの被害者は、その悲しみ苦しみから立ち直ろうと、もがき苦しみます。いつ被害者になるかわからない世の中「自分が当事者だったら、どんな思いを するのだろう」単なる同情ではなく、そんな眼差しを向けることが被害者を理解し、救う第一歩なのではないでしょうか。

悲しい別れ

若い人を葬儀で見送ることは悲しいことです。不慮の事故で亡くなられた、ある中学生のご葬儀には悲嘆にくれるご両親や親戚の方々などの関係者をはじ めとして、PTA関係者、そして多くの同級生や同世代の友人がお別れに訪れました。

中学生に限らず若い世代にとって「死」というものはまだまだ先のこと、遠い未来の非日常的出来事として捉えられているのが普通でしょう。しかし、突 然の事故によって、何の前触れもなく身近にもたらされる「死」という、消化しきれない現実を受け入れなければならない残酷さ。

そのあまりにも劇的な幕引きに立会い、告別式が終わっても立ち上がることができずに、ただ呆然とする多くの友人たちの姿が見られました。普段私たち はその生活の中で、「死」という、誰にも必ず訪れる瞬間をほとんど意識していません。自分自身が死を迎えるⅩデーを考えることは難しいことです。

しかし別れが悲しければ悲しいほど、同時に出会いの大切さを実感させられます。それは、その瞬間瞬間を一所懸命に生きること、偶然の出会いを喜び、 感謝する心 の大切さを知ることでもあります。友人の死という悲しすぎる別れを経験するのもまた生きている証なのでしょうか。

今日ある命を大切に思い、今を生きていることに感謝しなければ。

除夜の鐘

大晦日の夜を1年の日ごよみを除く夜と言う事で除夜と言うそうです。大晦日の夜、暮れゆく年を反省し,来たるべき年を迎える行事として、人間の煩悩 の数と同じとされる百八回、除夜の鐘が全国のお寺でつかれます。

煩悩とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ、智慧(ちえ)をさまたげる心のはたらきを言います。他の一神教が、善と悪のように世界を捉え、物事 を悪い方向へ導く「悪」は外在する存在と考えるのに対して、仏教の「煩悩」とは自らの心に内包するものと捉えています。

除夜の鐘には、そんな人間が持つ煩悩を梵鐘を衝くことによって滅しようとする意味が込められています。日本では古くから、鐘や鈴の音には浄化作用が あると信じられてきました。鐘を撞く前には鐘に向かって合掌します。108回のうち107回は旧年のうちに撞き、残りの1回を新年に撞くのが一般的です。

先の戦争で鉄砲や大砲の材料として軍に接収され、鐘つき堂はあっても鐘のないお寺も少なくありません。そんな時代の波に翻弄されながらも、今なお日 本人の心に荘厳さをもって鳴り響く梵鐘の音。自分だけに利益があるようにと願いがちな、ひとりよがりの考えを改め、除夜の鐘を聞きながら、新しい年の夜明 けに世界平和を願う。

年の初めにそんな日があってもいいのではないでしょうか。 2005/12/31

お悔やみ情報

最近は葬儀の知らせを、新聞のお悔やみ情報欄やチラシで見る機会が多くなりました。これらの情報はさまざまな人との関わりの中で生活する私たちに とって非常に大切です。葬儀という非常事態にみまわれる遺族にとって、誰に葬儀の予定を知らせたらいいのかわからない時に、葬儀社を介して新聞社に伝えら れ開示されるシステムは大いに効率的です。

しかし、これらの情報は悪意あるものにも利用される危険性をはらんでいます。ほとんどの葬儀が斎場で行われる今、自宅には誰もいないと公開している ようなものだからです。ご遺族の悲しみにつけこみ、不在の自宅が泥棒の被害を受ける。そんな犯罪が実際に起きています。

実に悲しいことですが、個人情報保護の大切さを実感する出来事でもあります。村八分という言葉がありますが、ある村民が仲間はずれの制裁を受けて も、葬儀と火事の二分だけは相互扶助の対象として残しておくという風習だったそうです。

それほどに、葬儀は非日常的なものであり、旧来の葬儀は隣近所の手助けを受け、相互扶助の中で営まれてきました。それが急激に失われつつあります。 しかし、ご近所が相互扶助の精神を取り戻し、葬儀で不在の家を自警する、そんなシステムはできないものでしょうか。

葬儀の値段

「葬儀ってどのくらいお金がかかるのだろう」これは、誰もが持つ疑問ではないでしょうか。しかし、これに関する明確な答えはありません。その内訳で ある祭壇や返礼品、精進落としの料理など、一つ一つの商品には価格があります。

しかし、葬儀費用は何人の会葬者が参列し、それぞれの商品がいくつ必要であったかによって総額が変わってくるという性格を持っています。そしてホテ ルで言えば、カプセルホテルから最上級のスウィートルームまでニーズやサービスが様々なように、ご遺族が私たちに求めるサービスの内容も質も様々です。

葬儀は結婚式などとは違って、会葬者が何人来られるのかを事前に把握できません。ですから、実務的には、限られた時間の中で話を伺い、ご遺族の求め るものを察知し、参列者などの人数を予測をしていただき、おおまかに予想される葬儀費用の総額を算出するしかありません。

よく「一般的にいくらか」と聞かれますが、それに対する答えが非常に難しいのです。平均は出せてもそれはあくまで平均値に過ぎません。人生が十人十 色で同じではないように、最後の舞台とも言える葬儀も、人それぞれ同じであっていいはずがありません。人生という生涯の主演ドラマを演じ切った故人のため にも。

グリーフワーク

配偶者や子供といった身近な存在の死別を体験すると深い悲しみ(グリーフ=悲嘆)に陥ります。その悲しみを乗り越え、立ち直るまでの心理的プロセス を「グリーフワーク」と言います。それは嘆き、悲しみとともに、絶望感、不安、敵意、自責感、無気力、パニック、情緒不安定など様々な形で現れます。

このグリーフワークに対してグリーフケアという言葉があります。悲嘆にある者をケアするということです。しかしグリーフケアは易しい作業ではありま せん。「かわいそう」と同情し「何かをしてあげよう」という姿勢は、それが善意であっても、上から下への視線であり、遺族の心を開くことは出来ません。

時にはその善意の関心をうるさく感じ、敵意となって跳ね返ることさえもあります。ケアしようとした人間は好意で癒してあげようと係わったのに、結果 は癒しどころかグリーフを深めることにもなりかねないのです。グリーフケアに必要なのは、こうした善意ではありません。

必要なのは人間としての共感であり、悲嘆にある人と目線を共有することなのです。ある人はそれを「寄り添う」ことだと表現しています。葬祭業に携わ る人間として、人間的共感をもって遺族に接する気持ちを大切にしたいと思います。

数珠の話

最近は、葬儀に参列するときに数珠を手にする方が多くなりました。念珠とも呼ばれる数珠はキリスト教における十字架と同様に、仏教を信じるものに とって大切なものです。み仏に向き合うための扉を開ける鍵といってもいいかもしれません。

法然上人は「身を浄め、手を洗いて、数珠を取れ」と仰しゃっていますし、蓮如上人は書の中で「当山の念仏者の風情を見及ぶに、数珠の一連をも、持つ 人なし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり」と書かれています。み仏に向かうときには数珠を手にするようにと、戒めているのです。

本来の数珠の数は除夜の鐘の数と同様に百八つで、これは人間の煩悩の数と同じだとされています。以前にも書きましたが、他の宗教の多くが物事を悪い 方向へ導く「悪」は外在する存在と考えるのに対して、仏教の「煩悩」とは自らの心に内包するものと捉えています。

数珠をもつことは内在する煩悩を鎮め、周囲の誘惑から、自らの煩悩が呼応しないように身を守るものと言えるでしょう。つまり日常生活の中でも数珠を 持つということは大きな意味を持つのです。最近はブレスレットのように日常でも身につけやすい形状の数珠も多くなりました。「気はこころ」自分を律する意 味で携行してみてははいかがでしょうか。

自分の死を考える

誰にも必ずいつか訪れる「死」という現実。頭では理解できても自分の死を真剣に考えたことがある人は少ないしょう。「死」は一般的な捉え方をすれば 心停止という、ある瞬間を境として訪れますが、そこに至る時間の流れは誰も予測することが出来ません。

不幸にも事故などによって突然死に至る場合もありますが、多くは徐々に老いを迎えていきます。その過程の中で、かなり長期にわたって認知症や寝たき りなどで介護が必要になり、精神的にも経済的にも家族に負担を強いることも少なくありません。

また病気や事故などによって、脳死状態に陥った場合の延命治療などは、家族の心に深い葛藤を生むことでしょう。こうした場合大きな問題となるのが、 本人は判断能力を失ってしまっているということなのです。遺産の問題などは遺言書のあるなしに関わらず法律的に解決が可能です。

しかし、こと認知症や寝たきりになったとき、どこで誰に介護をお願いすればいいのか、尊厳死をどのように考えるか、献体や臓器提供への意志はあるの か・・・、法律はなんら手助けをしてくれません。自分が死に至る過程を現実的に考え、自らの終末期に対する意志を伝えておくことも残された家族に残す一つ の愛情の形なのではないでしょうか。

水引と熨斗(のし)の話

水引とは慶弔用の金封袋や贈答品などを結ぶ紐をいい、熨斗は本来「のしあわび」といい、古来から貴重な食べ物であったあわびを延ばして干したもので す。弔事や見舞いには、なまぐさを断つ意味で熨斗はつけません。

水引には基本的に2種類あり、一つは蝶結びのような形状になっており、ほどけるように結んだもの、もう一つは、ほどけないように「結び切り」にした ものです。慶弔の別もあり、弔事用は結び切りで、再び弔事が起こらないようにとの願いが込められています。

一方で慶事用の水引は、結婚祝用は末永くその縁が解けないように結び切りにします。その他の祝い事用の袋はほとんどが蝶結びです。祝い事は何度あっ てもいい、そんな気持ちからです。しかし、同じ祝いでも、病気の全快祝いなどには、二度と繰り返さないように結び切りを用います。

よく病気見舞いや火事見舞いで蝶結びの熨斗袋を代用する方を見受けますが、本来であれば結び切りで熨斗のない袋にすべきでしょう。しかし、結婚式用 の豪華な水引が付いたものは別として、通常の祝い袋はほとんどが蝶結びで、結び切りのものはほとんど見かけません。

代わりに水引のない袋がよく販売されています。中身が一番大切なのは言うまでもありませんが、それを包む袋にも送る側の心を添えたいものです。

お香の話

仏式葬儀では導師、遺族をはじめ参列者一同で焼香をします。線香を用いる場合もありますが、会葬者が多い時は、抹香を焚いて焼香するのが一般的で す。この香を霊前に焚くと言う行為には、いくつかの意味が込められています。

古くは、防腐の技術が進んでおらず、亡くなられた故人の異臭を消すための意味が大きかったようです。またお香は、故人とお別れに参列する人たちが自 らの煩悩を消し去り心を清浄にするためのものでもあります。そして、仏壇で手向けるお香の香煙は仏さま、ご先祖様の食べ物を意味しています。

仏事で使う香典の本来の意味も「香をお供えする」という意味です。同様の意味からご飯を供える場合にも香気たつ炊きたてを献じたいものです。最近の 傾向としては、自宅の仏前で使う線香は煙の少ないものが人気が高いようです。

住宅が高気密になってきたからでしょうか。なかには「香りのしない線香はないですか」と尋ねられる場合もありますが、本来、香りがないと香を焚く意 味がありません。そのかわり例えばコーヒーが好きだった故人の場合、葬儀にコーヒー豆を抹香代わりに用いて焼香したり、仏前には香り漂う煎れたてのコー ヒーを献じるなど、その人にふさわしいご供養への工夫があってもよいのではないでしょうか。

お金で買えないもの

昨年、ひとりの友人との悲しい別れを経験しました。飲食店を経営するその友人とは「ネーブルシティかしま」という商店や事業所でつくる組織で知り合 い、様々な事業やイベントを通して親しくなり、社員旅行に同行させていただいたり、一緒に酒を酌み交わしたりと、公私にわたりお世話になった先輩でした。

そんな彼が突然病に倒れ、あっけないほど突然にこの世を去ってしまったのです。彼には二人の息子さんがいますが、それまでは家業を継ぐ意思を明確に は持っておらず、それが親として経営者としての気がかりでもあったようでした。

しかし、二人の息子さんは突然父親と死別するという場面に直面し、すぐさま家業を守ることを決意したのです。すぐに一人前とはいかないでしょうが、 父親の遺志を継ぎ、女将である母親を助け、他の社員たちと一丸となって懸命に努力する様を見ていると頼もしく感じられます。

テレビのコマーシャルでよく「お金で買えないものがある」というフレーズを耳にします。それは思い出であったり、ちょっとした感動であったり、金品 とは異なるものを意味するのでしょう。彼も確かにお金で買えない何かを残して逝きました。

「あなたの遺志はちゃんと家族に受け継がれていますよ」

「あなたに会えて本当に良かった」  合掌 2006/2/23